命の恩人ということもあって、ただ待ち続ければ、いつか彼を感動させられると奈々はそう信じていた。この数年、瑛介を感動させることはできなかったが、瑛介の両親は彼女に心を動かされていた。当初、瑛介の父と母は彼女を受け入れたくないという態度を示し、命の恩人としての感謝は示すものの、それ以上の親密さを見せることはなかった。しかし時間が経つにつれ、彼女の本気さ感動したらしい。例えば、今回のオークション。瑛介の母がどうしても手に入れたい品が出品されると知り、奈々と瑛介に二人分の招待状を用意してくれた。これは瑛介の母が二人の関係を深めるためのチャンスを作ってくれたに違いないと奈々は思った。そんなことを考えながら、奈々は瑛介の寝室のドアを軽くノックした。中には入らず、ドア越しに尋ねた。「今夜のオークションに行く?」部屋の中でシャツのボタンを留めていた瑛介は、その言葉に手を止めた。本当は行きたくなかったが、母が欲しがる物が出品される以上、仕方がなかった。最低限、親孝行のふりだけでもしないといけない。「うん」彼は冷たく一言だけ返した。その答えを聞いて、奈々はほっとした。とにかく彼が行くと決めてくれただけで十分だった。「それじゃ、後で迎えに来るわね。私も服の準備をしてくる」「うん」奈々はようやく笑顔を浮かべることができた。彼と一緒にオークションに行けるというだけで、まだチャンスがあると感じられるからだ。部屋を出ると、彼女は急いでスタイリストを呼び寄せ、一番華やかな装いを用意させた。夜になると、彼女は細いハイヒールを履いて瑛介を迎えに行った。今回のオークションは、ダイダイ通商主催の大規模なものだった。実力を示すために駿人が力を注いだイベントであり、多くの上流階級の人々が出席していた。特に目玉となる品はサプライズと言われ、多くの考古学の権威者たちも会場に駆けつけていた。車から降りた奈々は、ハイヒールの高さに足元がふらつき、思わず瑛介の手を取ろうとした。だが、瑛介は歩き出すタイミングを微妙にずらして、彼女の手が届く前に進んでしまった。その瞬間、奈々はバランスを崩しかけた。周囲からは笑い声が聞こえて、奈々の顔は真っ赤になった。音の方向を見ると、笑っていたのは普段から顔見知りの名門の令嬢た
奈々は、瑛介が自分を帰らせようとしていることに驚いた。唇が白くなって、思わず首を横に振った。「いや、帰りたくないわ。やっと一緒に来る機会を得たのに。私たち、もう何年も一緒に出かけてないでしょう?お願いだから」彼女はその場で涙ぐみ、悲しげな瞳で瑛介を見つめた。瑛介はただ無表情で彼女を見つめ返した。「私があなたの命を救ったことで、あなたに負担をかけているのは分かっている。でも、今だけ、そのことを忘れてくれない?私も普通の女の子として、あなたを追いかけたいだけなの」彼女がこれを口にしたとき、あえて自分が瑛介の「恩人」であるということを織り交ぜた。表面上は「恩人」という立場を忘れてほしいと言いながら、実際にはその事実を思い出させている。感情に訴えかけるつもりはなかったが、彼女にとってはこれが最後の切り札だった。このカードを切ることすら許されなければ、どうしたらいいのか分からない。幸運にも、この件について瑛介は常に彼女に感謝と感恩を抱いているようだった。しばらく冷静に彼女を見つめた後、ようやく肘を少し動かして言った。「今回だけぞ」その言葉を聞いて、奈々は嬉し涙を浮かべながら、瑛介の腕を取った。「ありがとう」やはり、どれだけ時間が経っても、このことを持ち出せば彼は必ず心を動かすものだ。それもそのはず、瑛介の心の中では、自分の命は彼女が与えてくれた二番目の命だという認識がある。彼の心を動かす方法は絶対にこれのほかにはないだろう。奈々は瑛介の腕を取り、先ほど笑っていた数人の女性たちを睨み返して、堂々と胸を張って会場に向かった。彼女たちが去った後、その女性たちは目を白黒させながら愚痴を言い合った。「見た?あの得意げな表情。明日にでも瑛介と結婚するみたい」「五年も追い続けて成果がないのに、なぜそんなに得意げになってるのかしら」「彼を助けたから彼女は受け入れられたのよ。それがなければ誰も相手にしないでしょう」「でも、弥生のこと覚えてる?彼女はなぜ離婚して去ったのかしら?奈々に負けて諦めたの?」「格が低かったんじゃない?負けたら引き下がるしかないわ」「でも、奈々だってまだ彼の彼女ですらないわよ?」その言葉に彼女たちは黙り込んだ。彼らの関係の真相は分からないままだった。会場に入ると
「傘、持ってきた?」後部座席で子供たちと一緒に座っている弥生が尋ねた。それを聞いて、友作は首を横に振った。「雨が降るとは思っていませんでした」弥生は周囲を見渡し、すぐに決断した。「前にコンビニがあるよね。そこで車を停めてもらえる?」最初の小雨は本格的な大雨に変わった。視界も悪くなり、到着する頃にはすでに遅刻していた。会場内には人がまばらだった。友作が招待状を取り出すと、入り口のスタッフの態度が急に恭しくなった。「どうぞこちらへお進みください」弥生が今回のオークションに参加するのは、実際には弘次の代行だった。弘次の地位と名声を考えれば、当然のようにVIP席が用意されていた。しかし、遅れてきたこともあり、前方の席に行くのは目立ってしまう。弥生は少し考えた後、スタッフに穏やかに微笑みながら言った。「後方の席でも構いませんよ」それを聞いたスタッフの顔色が変わった。「それは.....あのう、お二人は......」「大丈夫です。遅れてきたのは私たちのせいですし、後ろの席でもオークションには支障ありませんから」弥生がそう言うと、スタッフは困惑しつつも、結局上司に報告しに行った。弥生と友作が後方の席に着いたとき、すでに最初の出品物のオークションは終了していた。座席に座るとすぐに、友作がオークションカタログを弥生に渡した。弥生はそれをめくりながら言った。「弘次が狙っているものは、さっきの出品物ではないようね」友作は頷いた。「そうですね。その品物はおそらく目玉商品なので、最後に登場するでしょう」「最後......」弥生は少し考え込む。「じゃあ、弘次は今夜きっと大盤振る舞いね」その言葉に友作は思わず笑みを漏らした。「そうですね。でも、ご心配なく。黒田さんにとって、この程度の金額は大したことではありませんよ」もちろん弘次が金を惜しまないことは理解していたが、弥生は何も言わなかった。これくらいの支出は、弘次にとって日常のようなものだ。「私もいつか彼みたいな大金持ちになりたいわ」弥生は軽くつぶやいた。実際、彼女は自身の会社を立ち上げて、それを大きく成長させることを考えていた。たとえ弘次ほどの富を築けなくても、自分と子供たちが不自由なく過ごせるだけの余裕は作れる
弥生は、彼の言葉に答えなかった。10数秒後、友作は気まずそうに鼻を触りながら、軽く頭を下げた。おそらく、先ほどの会話があまりに気楽すぎたため、つい不用意な発言をしてしまったのだろう。それを思い出すだけで、友作は後悔の念に駆られた。しかし幸いなことに、数分後、弥生が自ら沈黙を破った。「友作、次の競売品、代わりに入札してくれる?」「次の品ですか?」友作は急いでカタログをめくって、中身を確認した。そこには、透明感のある見事な翡翠のブレスレットが載っていた。「これが気に入りましたか?」彼は少し驚いたような表情を浮かべた。弥生が翡翠の装飾品を好んでいるとはこれまで聞いたことがなかったからだ。だが、事前に弘次が「もし弥生が気に入るものがあれば、いくらでも入札し、必ず手に入れるように」と指示をしていたこともあり、友作は軽くうなずいた。弥生は静かに笑みを浮かべ、何も言わなかった。「分かりました。お任せください」次の競売品が登場する際、友作は真剣な表情で準備を整えた。まるでその翡翠のブレスレットが今夜の目玉商品であるかのような緊張感だった。弥生は、彼が気合いを入れている姿を見て、そっと口を開いた。「最初は少し様子を見てね」友作は大きくうなずいた。会場では次々と競りが進み、価格が次第に上昇していく。あっという間に、翡翠のブレスレットの値段は6億円に達した。さらに7億円になると、入札者の数が減り、競り合いは2人だけとなった。弥生は隣に座る友作に軽く目配せをし、「そろそろ」と合図を送った。友作は頷き、入札の札を上げようとしたその瞬間、前方の席から声が響いた。「8億円」友作が出そうとした金額と同じだったが、一歩先に宣言されてしまった。彼は長年弘次の指示を受けている経験から、少し考えた末、さらに大胆な一手を打つことを決めた。「9億円」隣に座る弥生が反応する前に、友作はすでに札を上げていた。弥生は唇を動かしたが、何も言わなかった。ただ、友作の「絶対に勝つ」という気迫を見て、少し考えを巡らせていた。その頃、奈々も再度入札の準備をしていた。奈々は今回の競売で何かを買うつもりはなかったが、瑛介と一緒に来たこともあって、注目を集める絶好の機会を逃したくないと考えていた。彼女は瑛介の隣に座りながら、
弥生が加えて何か言おうとしたとき、友作はまた札を上げた。「10億円」10億円という金額は、大富豪家族にとってそれほど驚くべきものではないが、この翡翠のブレスレットを巡る競り合いでは、奈々もまさかここまで価格を引き上げられるとは思っていなかった。特に今日、彼女は瑛介と一緒に来ているため、周囲の人々はその関係を配慮して、敢えて彼女と競り合うことは避けるだろうと思っていた。だが、現実は違った。「やはり、私は軽視されているのね......」そう思いながら、奈々は唇を軽く噛んだ。そして再び札を上げた。「11億円」その直後、友作も間髪入れずに続けた。「12億円」彼女はこの品がほしいのを示したことに後悔した。会場内では、ざわざわとした囁き声が広がり始めた。翡翠のブレスレットごときでこれほどの競り合いになるとは誰も思っていなかった。価格が12億円に達し、奈々は再び唇を噛んで札を上げた。「13億円」それを見た友作がまた札を上げようとした瞬間、隣の弥生が彼の動きを止めた。「もうやめて」「でも、黒田さんのご指示では......」弥生は静かな目で彼を見つめた。「もうこのブレスレットは要らないの。私が気に入らないものを買って、弘次の代わりに私に贈るつもり?」その言葉に、友作は一瞬驚き、動きを止めた。確かに、彼の目的は弘次の代わりに弥生を喜ばせることだった。だが、ここで彼女の意に反してまで強引に進めれば、かえって逆効果になるかもしれない。結局、友作は諦めることを決めた。「分かりました。ただ、次に何か気に入るものがあれば、教えてください」弥生は微笑んで、軽く頷いた。しかし、友作はこう思った。「彼女が次に何か気に入るものを見つけたとしても、それを表に出すことはもうないだろう」奈々は、13億円という金額で翡翠のブレスレットを手に入れた。周囲の人々からの囁き声が彼女の耳に届き、彼女は勝ち誇ったように背筋を伸ばした。「13億円......これで今日の私は十分目立てただろう」彼女は心の中でそう思って、明日には「自分が瑛介とともにオクションに出席し、13億円の翡翠のブレスレットを競り落とした」というニュースが広まると確信していた。メディアは注目を集めるために、きっとそれを「瑛介が奈々に
奈々は手元の競品カタログをめくりながら、瑛介のそばにそっと寄り添い、小声で言った。「お母さんが欲しいもの、そろそろ出てくるわ」「うん」瑛介は短く冷たく返事をしただけで、目線は相変わらずスマートフォンの画面に落ちていた。奈々は唇を軽く引き結んだ。彼は座ってからずっとスマホを見ていた。目玉の品が登場するまで、ほかの出品には全く興味を示さないようだ。しかし、そんなに興味がないにしても、彼はよくスマホをいじる人ではなかった。一体、何をそんなに見ているのかしら?気になった奈々は、ちらりと瑛介のスマホ画面を覗いた。目に飛び込んできたのは、なんと2人の子どもの写真だった。えっ......子ども?彼が子どもの写真を見ているなんて......?一瞬、自分の目を疑った奈々だったが、次の瞬間には画面が暗くなり、瑛介が冷たい視線を彼女に向けた。「何?」瑛介の声が低く響いた。奈々は慌てて首を振り、言い訳をした。「何でもないわ。ただ、ちょっと声をかけたかったけど......」「うん」瑛介はスマートフォンをしまい、前方のステージを見つめた。奈々も、その場に居心地の悪さを覚えながら、背筋を伸ばして座り直した。しかし、どうしても胸の中に不安が湧き上がってくる。瑛介が子どもの写真を見るなんて、一体どういうこと?彼のスマホにそんな写真が入っているなんて、これまで一度もなかったはずだ。それに、近年は仕事一筋で、子どもなんて彼の関心にならないはずだ。ふと頭をよぎったのは、その子どもたちが瑛介に似ているように思えた一瞬の記憶だ。ぞっとした奈々の顔から血の気が引き、唇の色も失われた。まさか......本当に?過去に、瑛介が酒に酔っている隙をついて子どもを作ろうとする女性たちが何人もいたことを思い出した。さらには、そのために子どもに美容手術まで施し、瑛介に付き合わせようとしたケースもあった。あまりの行動に、宮崎グループは声明を出し、そんな企てを防いだ。それでも今日の瑛介の態度は異様だった。彼自身が自ら子どもの写真を見つめているのだ。胸に湧いた不安と嫉妬が交錯し、奈々の気分は完全に沈んでしまった。オクションもいよいよ最高潮を迎え、最後の競品が登場するタイミングとなった。司会者は興奮した
前回は謎の人物が高額でこの品を落札した。会場にいる人々は、この人が誰なのかを推測していたが、駿人が入手したとは誰も思っていなかった。弥生は何かを思い出し、隣の友作に尋ねた。「この福原駿人って......」友作は、彼女の考えを察したかのように、彼女の質問を最後まで聞かずに答えた。「それは以前霧島さんを引き抜こうとしていた益田グループの人です」やはりその益田グループだったのか。弥生は会場を眺めながら、唇をわずかに持ち上げた。「なかなかやるわね」「ええ」友作はうなずいた。「確かに腕があって、度胸もあるようですが。この品までをも手に入れたのは不思議ですね。」会場ではすでに競売が始まっていた。友作はため息をつきながら言った。「今日の勢いから見れば、いくらで落札されるのか想像もつきませんね」貴重な品であるため、開始価格も非常に高かった。次々と価格が競り上がって、わずか数分で80億円に達した。80億円、100億円......オークション会場で響く数字は、実際にあったお金ではなく、ただの数字のように軽々と扱われていた。「120億円!!」司会者が驚きの声を上げて、興奮して名前を口にした。「宮崎様が120億円の価格を提示されました。それ以上の価格を出される方はいらっしゃいますか?」「宮崎」という苗字を聞くと、友作は思わず弥生の方を見た。しかし、弥生はその苗字を聞いてもまるで気にしない様子で、平然とした表情で座っていた。だが友作の心はざわめいていた。ここは海外ではなく、日本だ。それも南市の近くにある都市、早川だから。早川だけでなく、国内全体を見渡しても、この価格を提示できて、さらに宮崎という苗字を持つ人物とすれば、宮崎瑛介に違いない。友作は自分が推測できたのなら、弥生もきっと同じように察しているはずだと思った。だが、彼女の平然とした様子から、既に気にしていないと感じ取った。そうだ、5年もの時間が経ったのだ。5年というのは、長くも短くもないが、多くのことが薄れてしまったのだろう。友作はそう思うと少し安堵して、再び入札を続けた。120億円という金額が、多くの人々の足を止めていた。どれだけこの品を気に入ったとしても、限界を超える金額になると、誰もが慎重になるものだ。結果、価格争い
雨はますます激しくなり、廊下は半分まで濡れていた。弥生は身に着けていたスカーフを引き寄せた。こんなに寒いとは思っていなかった。立ち止まったものの、弥生は少しぼんやりしていた。今夜耳にした「宮崎さま」という呼び名を思い返していた。以前のように、この苗字を聞いても心が揺れることはもうなかった。しかし、今夜の「宮崎さま」が、以前仕事中に出会った「宮崎さま」ではないことは分かっていた。ここは日本であって、それに早川なのだ。120億円もの金額を即座に出せて、それにこの場に招かれる宮崎という人物は、彼しかいない。もう5年も会っていないのか。弥生は深く息を吸い、別の方向へと歩き出した。「霧島さん」数歩進んだところで、長身で清潔感のある男性が彼女の行く手を遮った。弥生は驚いて、その男性を見上げた。男性はブルーのスーツを着ており、ネクタイがきっちりと締められていた。彼女が顔を上げたのを見ると、彼は微笑みながら自己紹介を始めた。「初めまして、福原駿人と申します」福原駿人?さっき話していた福原家の後継者?弥生がぼんやりしているのを見て、駿人は眉を上げて言った。「霧島さん、私のことをご存じないですか?これまで何度もあなたに入社の招待を出してきたのに、私のことをご存じないとは」「いええ、そんなことはありません。存じております。初めまして、よろしくお願いします」弥生は彼の手を握り返しながら答えた。「ただ、福原さんがここにいらっしゃるのが不思議だと思いまして」弥生は益田グループの新任リーダーの顔を知らなかったが、知っているふりをすることに支障はなかった。これから早川で会社を設立する予定の彼女にとって、地元企業との関係を築くことは重要だった。柔らかくしなやかな女性の手を握った駿人は、一瞬驚いたような表情を浮かべた。一触即発の瞬間、弥生はすぐに手を引っ込めた。駿人は彼女を暫く見て、尋ねた。「ところで、どうしてこちらに?」「座っていると疲れるので、少し気分転換に来ました」「なるほど」駿人は眉を上げ、続けて聞いた。「ちょっと教えていただきたいことがあります。これまで何度も僕の入社招待を断られていますが、その理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?僕が提示した条件は、以前のお勤め先よりもずっ
二時間後、飛行機は南市に到着した。事前に心の準備をしていたとはいえ、飛行機を降り、見慣れた空港の光景が目に入ると、弥生の指先は無意識に微かに震えた。五年前、彼女はここから去った。それから五年が経ったが、空港の様子はほとんど変わっていない。最後尾を歩く弥生の心は、ずっしりと重く感じられた。彼女が物思いにふけていると、前を歩いていた瑛介が彼女の遅れに気づき、足を止めて振り返った。だが弥生は気づかず、そのまま真正面からぶつかった。ドンッ。柔らかな額が、しっかりとした胸に衝突した。弥生は足を止め、ゆっくりと顔を上げると、瑛介の黒い瞳が目に飛び込んできた。彼は冷たい声で言った。「何をしている?」弥生は一瞬動きを止め、額を押さえながら眉をひそめた。「ちょっと考え事をしてたの」「何を?」弥生は額を押さえたまま、目を少しぼんやりとさせた。「おばあちゃんは、私を責めるかな?彼女の墓前に行ったら、歓迎してくれるかな?」瑛介はわずかに表情を変えた。数秒の沈黙の後、彼は低く静かな声で答えた。「前に言ったはずだ。おばあちゃんはずっと君に会いたがってた」会いたかったとしても?どれだけ会いたかったとしても、自分は孝行を果たすことができなかった。最期の時ですら、そばにいることができなかった。もし自分が逆の立場だったら、きっと私を恨むだろう。だが、おばあちゃんはとても優しい人だった。そんなことは思わないかもしれない......弥生は自分に言い聞かせるように、そっと息を吐いた。「行こう」空港を出る頃には、すでに夕方六時近くになっていた。空は灰色の雲に覆われ、今にも雨が降りそうだった。ホテルに着いたときには、すでに空気が湿り始めていた。弥生がフロントでチェックイン手続きをしていると、瑛介も一緒についてきた。「家には帰らないの?」彼女が尋ねると、瑛介は何気ない口調で答えた。「そこからお墓まで近い。朝起きてすぐ行けるから」それなら納得できる理由だったので、弥生もそれ以上何も言わなかった。二人はそれぞれ別々に部屋を取った。健司は瑛介と同室で、弥生は一人だった。部屋はちょうど向かい合わせになった。部屋に入ると、弥生は靴を脱ぎ、ふわふわのベッドに倒れ込んだ。外では
瑛介は解決策を弥生に提案した。彼の提案に気づくと、弥生は仕事の集中からふっと我に返り、瑛介を見た。「どうした?間違ってたか?」弥生は眉を寄せた。「休まないの?」瑛介はあくまで冷静に答えた。「うん、眠くないんだ」弥生はそれ以上何も言わず、再び仕事に戻ったが、彼の指摘した解決策を改めて考えてみると、それが最も適切な方法だったことに気づいた。彼女は軽く息をつき、言った。「邪魔しないで」それを聞いた瑛介は、目を伏せて鼻で笑った。「善意を踏みにじるとはな」「君の善意なんていらないわ」瑛介はその言葉に腹を立てたが、彼女が結局彼の提案を採用したのを見て、気が済んだ。そして心の中でひそかに冷笑した。ちょうどその時、客室乗務員が機内食を配りに来た。弥生は仕事に没頭していて、食事を取る時間も惜しんでいた。そんな中、瑛介の低い声がふと聞こえた。「赤ワインをもらおう」弥生はパソコンを使いながら、特に気に留めていなかった。だが、その言葉を聞いた途端、彼女はぴたりと手を止め、勢いよく顔を上げた。じっと瑛介を見つめ、冷静に言った。「まだ完治してないのに、お酒を飲むつもり?」瑛介は特に表情を変えずに返した。「ほぼ治った。少し飲むだけだ」その言葉に、弥生は呆れたように沈黙し、数秒後、客室乗務員に向かって言った。「ごめんないね。退院したばかりなので、お酒は控えないといけないんです。代わりに白湯をお願いできますか」客室乗務員は瑛介を見て、それから弥生を見て、一瞬戸惑ったが、最終的に頷いた。「はい、承知しました」「弥生、そこまで僕を制限する権利があるのか?」瑛介が低い声で抗議した。しかし弥生は無表情のまま、淡々と答えた。「私は今、君の隣の席に座っているの。もし君がお酒を飲んで体調を崩したら、私の仕事に影響するでしょう?飛行機を降りたら、好きなだけ飲めばいいわ」しばらくして、客室乗務員が温かい白湯を持ってきた。飛行機の乾燥した空気の中、湯気がわずかに立ち上った。瑛介は目の前の白湯をじっと見つめた。長時間のフライトで白湯を出されたのは彼の人生でこれが初めてだった。だが、不思議なことに、不快には感じなかった。ただ、問題は......自分からこの白湯を手に取るのが
弥生は瑛介に手を握られた瞬間、彼の手の冷たさにびっくりした。まるで氷を握っていたかのような冷たさ。彼女の温かい手首とあまりにも温度差があり、思わず小さく身震いしてしまった。そのまま無意識に、弥生は瑛介のやや青白い顔をじっと見つめた。二人の手が触れ合ったことで、当然ながら瑛介も彼女の反応に気づいた。彼女が座った途端、彼はすぐに手を引っ込めた。乗務員が去った後、弥生は何事もなかったかのように言った。「さっきは通さないって言ったくせに?」瑛介は不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙ったままだった。だが、心の中では健司の作戦が案外悪くなかったと思っていた。彼がわざと拒絶する態度をとることで、弥生はかえって「彼が病気を隠しているのでは?」と疑い、警戒するどころか、むしろ彼に近づく可能性が高くなるという作戦だ。結果として、彼の狙い通りになった。案の定、少しの沈黙の後、弥生が口を開いた。「退院手続き、ちゃんと済ませたの?」「ちゃんとしたぞ。他に選択肢があったか?」彼の口調は棘があったが、弥生も今回は腹を立てず、落ち着いた声で返した。「もし完全に治ってないなら、再入院も悪くないんじゃない?無理しないで」その言葉に、瑛介は彼女をじっと見つめた。「俺がどうしようと、君が気にすることか?」弥生は微笑んだ。「気にするわよ。だって君は私たちの会社の投資家だもの」瑛介の目が一瞬で暗くなり、唇の血色もさらに悪くなった。弥生は彼の手の冷たさを思い出し、すれ違った客室乗務員に声をかけた。「すみません、ブランケットをいただけますか?」乗務員はすぐにブランケットを持ってきてくれた。弥生はそれを受け取ると、自分には使わず、瑛介の上にふわりとかけた。彼は困惑した顔で彼女を見た。「寒いんでしょ?使って」瑛介は即座に反論した。「いや、寒くはないよ」「ちゃんと使って」「必要ない。取ってくれ」弥生は眉を上げた。「取らないわ」そう言い終えると、彼女はそのまま瑛介に背を向け、会話を打ち切った。瑛介はむっとした顔で座ったままだったが、彼女の手がブランケットを引くことはなく、彼もそれを払いのけることはしなかった。彼はそこまで厚着をしていなかったため、ブランケットがあると少し温かく感じた。
「どうした?ファーストクラスに来たら、僕が何かするとでも思ったのか?」弥生は冷静にチケットをしまいながら答えた。「ただ節約したいだけよ。今、会社を始めたばかりなのを知ってるでしょ?」その言葉を聞いて、瑛介の眉がさらに深く寄せられた。「僕が投資しただろう?」「確かに投資は受けたけど、まだ軌道には乗っていないから」彼女はしっかりと言い訳を用意していたらしい。しばらくの沈黙の後、瑛介は鼻で笑った。「そうか」それ以上何も言わず、彼は目を閉じた。顔色は相変わらず悪く、唇も蒼白だった。もし彼が意地を張らなければ、今日すぐに南市へ向かう必要はなかった。まだ完全に回復していないのに、こんな無理をするのは彼自身の選択だ。まあ、これで少しは自分の限界を思い知るだろう。ファーストクラスの乗客には優先搭乗の権利がある。しかし弥生にはそれがないため、一般の列に並ぶしかなかった。こうして二人は別々に搭乗することになった。瑛介の後ろについていた健司は、彼の殺気立った雰囲気に圧倒されながらも、提案した。「社長、ご安心ください。機内で私が霧島さんと席を交換します」だが、瑛介の機嫌は依然として最悪だった。健司はさらに説得を続けた。「社長、霧島さんがエコノミー席を取ったのはむしろ好都合ですよ。もし彼女がファーストクラスを買っていたとしても、社長の隣とは限りません。でも、私は違います。私が彼女と席を交換すれば、彼女は社長の隣になります。悪くないと思いませんか?」その言葉を聞いて、瑛介はしばし考え込んだ。そして最終的に納得した。瑛介はじっと健司を見つめた。健司は、彼が何か文句を言うかと思い、身構えたが、次に聞こえたのは軽い咳払いだった。「悪くない。でも、彼女をどう説得するかが問題だ」「社長、そこは私に任せてください」健司の保証があったとはいえ、瑛介は完全に安心はできなかった。とはいえ、少なくとも飛行機に乗る前ほどのイライラは消えていた。彼の体調はまだ万全ではなかった。退院できたとはいえ、長時間の移動は負担だった。感情が高ぶると胃の痛みも悪化してしまうはずだ。午後、弥生のメッセージを受け取った時、瑛介はちょうど薬を飲み終えたばかりだった。その直後に出発したため、車の中では背中に冷や汗
もし瑛介の顔色がそれほど悪くなく、彼女への態度もそれほど拒絶的でなかったなら、弥生は疑うこともなかっただろう。だが今の瑛介はどこか不自然だった。それに、健司も同じだった。そう考えると、弥生は唇を引き結び、静かに言った。「私がどこに座るか、君に決められる筋合いはないわ。忘れたの?これは取引なの。私は後ろに座るから」そう言い終えると、瑛介の指示を全く無視して、弥生は車の後部座席に乗り込んだ。車内は静寂に包まれた。彼女が座った後、健司は瑛介の顔色をこっそり伺い、少し眉を上げながら小声で言った。「社長......」瑛介は何も言わなかったが、顔色は明らかに悪かった。弥生は彼より先に口を開いた。「お願いします。出発しましょう」「......はい」車が動き出した後、弥生は隣の瑛介の様子を窺った。だが、彼は明らかに彼女を避けるように体を窓側に向け、後頭部だけを見せていた。これで完全に、彼の表情を読むことはできなくなった。もともと彼の顔色や些細な動きから、彼の体調が悪化していないか確認しようとしていたのに、これでは何も分からない。だが、もう数日も療養していたのだから大丈夫だろうと弥生は思った。空港に到着した時、弥生の携帯に弘次からの電話が入った。「南市に行くのか?」弘次は冷静に話しているようだったが、その呼吸は微かに乱れていた。まるで走ってきたばかりのように、息が整っていない。弥生はそれに気づいていたが、表情を変えずに淡々と答えた。「ええ、ちょっと行ってくるわ。明日には帰るから」横でその電話を聞いていた瑛介は、眉をひそめた。携帯の向こう側で、しばらく沈黙が続いた後、弘次が再び口を開いた。「彼と一緒に行くのか?」「ええ」「行く理由を聞いてもいいか?」弥生は後ろを振り返ることなく、落ち着いた声で答えた。「南市に行かないといけない大事な用があるの」それ以上、詳細は語らなかった。それを聞いた弘次は、彼女の意図を悟ったのか、それ以上問い詰めることはしなかった。「......分かった。気をつけて。帰ってきたら迎えに行くよ」彼女は即座に断った。「大丈夫よ。戻ったらそのまま会社に行くつもりだから、迎えは必要ないわ」「なんでいつもそう拒むんだ?」弘次の呼吸は少
「そうなの?」着替えにそんなに慌てる必要がある?弥生は眉間に皺を寄せた。もしかして、また吐血したのでは?でも、それはおかしい。ここ数日で明らかに体調は良くなっていたはずだ。確かに彼の入院期間は長かったし、今日が退院日ではないのも事実だが、彼女が退院を促したわけではない。瑛介が自分で意地を張って退院すると言い出したのだ。だから、わざわざ引き止める気も弥生にはなかった。だが、もし本当にまた吐血していたら......弥生は少し後悔した。こんなことなら、もう少し様子を見てから話すべきだったかもしれない。今朝の言葉が彼を刺激したのかもしれない。彼女は躊躇わず、寝室へ向かおうとした。しかし、後ろから健司が慌てて止めようとしていた。弥生は眉をひそめ、ドアノブに手をかけようとした。その瞬間、寝室のドアがすっと開いた。着替えを終えた瑛介が、ちょうど彼女の前に立ちはだかった。弥生は彼をじっと見つめた。瑛介はそこに立ち、冷たい表情のまま、鋭い目で彼女を見下ろしていた。「何をしている?」「あの......体調は大丈夫なの?」弥生は彼の顔を細かく観察し、何か異常がないか探るような視線を向けた。彼女の視線が自分の体を行き来するのを感じ、瑛介は健司と一瞬目を合わせ、それから無表情で部屋を出ようとした。「何もない」数歩進んでから、彼は振り返った。「おばあちゃんに会いに行くんじゃないのか?」弥生は唇を引き結んだ。「本当に大丈夫?もし体がしんどいなら、あと二日くらい待ってもいいわよ」「必要ない」瑛介は彼女の提案を即座に拒否した。意地を張っているのかもしれないが、弥生にはそれを深く探る余裕はなかった。瑛介はすでに部屋を出て行ったのだ。健司は気まずそうに促した。「霧島さん、行きましょう」そう言うと、彼は先に荷物を持って部屋を出た。弥生も仕方なく、彼の後に続いた。車に乗る際、彼女は最初、助手席に座ろうとした。だが、ふと以前の出来事を思い出した。東区の競馬場で、弥生が助手席に座ったせいで瑛介が駄々をこね、出発できなかったことがあった。状況が状況だけに、今日は余計なことをせず、後部座席に座ろうとした。しかし、ちょうど腰をかがめた時だった。「前に座れ」瑛介の冷たい声が
健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った
瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着
この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた